誇らしい歴史、恥ずかしい史料

朝鮮日報でチェックしている鮮于鉦(ソンウ・ジョン)論説委員のコラム「誇らしい歴史、恥ずかしい史料」(2015年 11月 29日)で取上げた「朝鮮王公族―帝国日本の準皇族 (中公新書)」を読んでみた。

鮮于鉦氏はコラムで述べる。
ただの嫌韓本だろうと思いながら数ページ読んだところ、多くの史料に基づき綿密に書かれた本だということが分かった。
不愉快ではあったが、そのまま置いていくことはできなかった。
2005年に赤坂プリンスホテルで英親王の一人息子、李玖(イ・グ)が死亡しているのが発見された。
国が独立状態を保っていれば、皇帝になっていた人物だった。
李玖が亡くなっていた赤坂プリンスホテルは、かつて日王(天皇の韓国での呼称)が与え、父・英親王の東京都内の邸宅「旧李王家邸」があった所でもあるという。
この本は、「旧李王家邸」のように私たち韓国人が忘れたいと思っていることを思い起こさせた。
この本を読みながら日本の緻密さに驚いた。
植民地時代の朝鮮王族の全体像を書いた「王公族録」、高宗の記録を別に書いた「李太王実録」はもちろん、高宗の実兄の行動を記録した「李熹(イ・ヒ)公実録」、甥の行動を記録した「李埈(イ・ジュン)公実録」まで編さんしたという。
王族が平和に暮らしているから、民も反抗せずにおとなしくしていろという意図だったのだろうか。
史料の中には日本が歪曲・ねつ造した記述もあるだろう。
しかし、韓国人が歪曲やねつ造を立証できなければ、その記録は最終的に歴史として残る。
この本を読んでいて一番胸が痛んだのはそうした点だった。
朝鮮が亡びた後だったが、日本は高宗実録や純宗実録を8年かけて製作した。
朝鮮の現在はもちろん、過去についても日本帝国史の一環にしようという意図だったのだ。
編さんを指揮した人物も日本の学者だった。
朴槿恵(パク・クンヘ)大統領は「誇らしい歴史を正しく教えるべきだ」と言う。
当然、韓国の歴史は誇らしい。
だが、誇らしい歴史を書くには、まず誇らしい史料を発掘しなければならない。

新城道彦氏は著書「朝鮮王公族」で述べる。
世界的な文化財返還運動のなかで、宮内庁の『儀軌』は一躍有名になった。
しかし、移管経緯に関しては、「帝国主義」の名のもとで、御覧用の『儀軌』を奪取したフランスの行為と同一視されているといっても過言ではない。
もちろん、実録編修のための史料として複数部ある保存状態の悪いものを持っていったからといって、返さなくてもよいという理由にはならない。
相互主義が尊重されるかぎり、返還するのが正しいと思う。
ただし一つ気になるのは、民主党幹部や韓国のマスメディアがたびたび発した〝儀軌は韓国にあってこそ意味を持つ〟という意見である。
韓国政府や国民が日本から文化財を取り戻すことだけで満足し、単に博物館に飾っておくだけならば、たいした〝意味〟は持たないだろう。
先述したとおり、『高宗太皇帝実録』『純宗皇帝実録』は日本が作ったという理由から正統な『朝鮮王朝実録』に含まれていない。
それならば、日本が『儀軌』を史料として活用し、朝鮮王朝時代までさかのぼって李大王、李裏公、李竣公の実録を編修したように、韓国独自の力で 『高宗太皇帝実録』『純宗皇帝実録』を編修してはどうかと思う。それでこそ『儀軌』が本来の意味を持つといえよう。

韓国のマスメディアで真正面から反応した鮮于鉦氏に「いいね!」

乙女ヶ池

null
乙女ヶ池(おとめがいけ) 高島市勝野3061-1

 この内海は、天平宝字8年(774)「恵美押勝の乱」の戦場となり、敗れた押勝(藤原仲麻呂)とその一族郎党が捕らえられて処刑された「勝野の鬼江」はこの地と推定されている。
又、背後の山中には「壬申の乱(672)」の際、近江朝(大友皇子軍)の基地であった「三尾城」の存在が考えられるなど、日本の古代史上の二大戦乱の場となった所である。
またこの水域は、古代、びわ湖舟運に欠くことのできない天然の良津であった。
今も近くに続く勝野・三尾(水尾)崎・真長浦・香取浦が歌枕として『万葉集』に詠まれている。
中世の戦乱期には、当地の武将たちはこの山中に城や砦を築いて領国の護りとした。
近世に入ると、軍事上この地を重視した織田信長は、甥の信澄に大溝城を築かせて城主として配した。ここは又、びわ湖に通じる大溝城の外濠としての務めを果たしたのである。
昔は「洞海」と呼んでいたが、昭和初期、淡水真珠の養殖場として利用された頃から「乙女ヶ池」と呼ぶようになった。
この池は、県有施設として平成三年度から平成5年度の3カ年で水景整備され、釣りを楽しむ人や、歴史とロマンを求めてここを訪ねる人が多い。
平成9年3月 高島町教育委員会