武内宿禰の墓? 菜切塚


浄専寺 尼崎市浜田町2丁目59
浄土真宗 本願寺派 宿禰山
山号に宿禰とある通り、『武庫郡誌』(武庫郡教育会編、1921)に「武内宿禰大臣53世の末裔、武内兵部候貞之の開基にして、紹郡と号す。時に長禄元年10月なり。現住持は17代目に当る。」とあります。
宝物にも縁起書、後小松帝・後醍醐天皇・後西院天皇の宸翰に武内宿禰以来の古系図があるという。

『武庫郡誌』にはこの地域に「武内宿禰の墓」があるという。
「武内宿禰の墓地と称するもの三あり。
一は大和国南葛城郡室村、一は和泉國泉北郡舳松村長冢山、他は即ち本村浜田村に存するもの之なり。
最も信頼すべきものは大和の室村に存するものとす。
本村に在るものに於ては微証すべき正確の旧記なし。
されど宿禰の墳墓と伝ふる辺に、其支族の居住せしは事実なるが如し。
故に是等一族の祖廟なるに非ざるか。蓋し事実に近かるべし。」
此村に武内氏と称する者ありて、種々の口碑を伝ふ。叉左の如き記録を伝ふ。
昔仁徳天皇の御字に、孝元天皇之皇子彦太忍信命曾孫、武内宿禰大臣免位之後、常地に居住給、仁徳天皇郎位五十五年七月十三日に薧す。
其後此地に一子残て代々朝延に仕来、其忠不尠、其末崇徳天皇讃岐国へ御遷幸之峠。武内太郎左衛門国房之家に被遊御休幸天皇崩御之後、我地に神社を建て雖奉鎮座、文明年中有事故、村社松原之宮素戔嗚之紳命之脇殿奉祇然る處武内之末五十二世武内兵部卿貞之、本願寺第八世蓮如法主に帰依為僧、法名号紹郡此時賜浄専寺号如斯現地に一字を建て、号宿禰山浄専寺と云ふ。
元禄三年五月  武内久左衛門時茂

尚摂津陽落穂集に、
崇徳天皇讃岐国へ御幸の砌、大風にて海中波高く当地へかゝらせられて、武内太郎家に御休幸被遊、其時に天皇に奉献の品は海近き御品、このしろ、まて、はまぐり、かき、天皇大に御感悦の余り、『わすれぬの御製』、『すくねづかの御製』を被為染武内へ賜はりしに、文明年中大浪にて水失す。右の由緒あるを以て今に至りて、毎年二月十八日天皇御祭典に、前書の御品を神前に献じ奉る云々。と見ゆ。」

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崇徳院


旧国道2号線(中国街道)、尼崎市の琴浦通り沿えに「崇徳院」という地名が残っています。
崇徳院とは保元の乱で讃岐に配流となった崇徳天皇(1119~1164)のこと。
その名が何故尼崎の地名に?その答えがここから1km程北にあります。

松原神社 尼崎市浜田町1丁目6
三輪大明神・素戔嗚尊・崇徳天皇
崇徳天皇が讃岐に流される途中、嵐を避けるため浜田に立ち寄った際、村人が精一杯もてなしたという。
歿後は神と祀り、今も3月13日の春祭りには当時と同じものを献上している。
菅原道真公には大宰府へ左遷された行程に多くの天満社が建てられましたが、同じく怨霊として恐れられた崇徳院の神社は少ないのでは?