Costco

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尼崎倉庫の改装が終わったので、久々にロティサリーチキンを求めに行ってきました。

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フードコートも綺麗になっていました。ただ席が混んでいて落ち着けないのであまり利用しません。

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こちらはホノルルのイリカイ店。倉庫内は同じ構成ですが、フードコートが少し違います。

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フードコートが屋外にあって、広々としています。

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ハワイ・カイ・タウン・センターも屋外にあり、皆さん買ったものを車に積み込んでから寛いでいます。

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有功の業績

ツキノエ
ツキノエ
蜂起した仲間を松前藩に引き渡した「夷酋列像」の12人の肖像画は精緻で素晴らしいモノに違いないのですが、アイヌの裏切り者ではないかと思うと・・・。

田端 宏「松前藩の成立と蝦夷地(近世前期)」『北海道の歴史〈上〉古代・中世・近世編』(北海道新聞社・2011)で「クナシリ・メナシの戦い」を振り返ってみると、

安永3年(1774)飛騨屋久兵衛が、松前藩への貸付金の返済のかわりにクナシリ場所などを受け取り、飛騨屋の商船がはじめてクナシリへ渡航したが、クナシリのツキノエの「乱妨」で交易をはじめることはできなかった。
ツキノエは飛騨屋との交易は拒絶しっつロシアに近づく態度をとっていたが、対和人交易なしでは対ロシア関係も不調となるので、天明2年(1782)ツキノエが「心底を改め相託候」ということで飛騨屋の商船がクナシリ交易をはじめることとなった。
飛騨屋は、クナシリ場所の運上金を前納しているのに8ヵ年も交易ができなかったので、収益を大きく追求する場所経営が行われた。
寛政元年(1789)5月にクナシリで、次いでメナシ地方でも蜂起がはじまり、各地で71人の和人が殺害されることとなってしまった。
「蜂起」の報を受けると松前藩の鎮撫軍は急いで出陣し、各地で「長人(ちょうじん)」を連行して7月に到着。
アッケシ長人イコトイはクナシリへ、ノカマッフ長人シヨンコはメナシ方面へ出張して「蜂起」に関係したアイヌの人々を鎮撫軍の前に連れてくることに働いた。
7月15日までにはメナシの183人、同16日にはクナシリの131人がノカマッフに着いていた。
その取り調べにあたったのも「長人」たちで、クナシリでは41人、メナシ地方では89人が「徒党の者」とされ、クナシリのツキノエの息子セツハヤフも直接の加害者としてあげられていた。
7月20日には、「徒党」のうちの主な者を呼び出して取り調べ、「申ロ」を整理、記録している。
その概要は、待遇の劣悪さ、支配人・番人らの暴言・暴行、特に「密夫」のひどさなどからやむなく殺害行為となったという内容であった。
多人数を殺害した罪は重罪にあたるとして37人を入牢させ、評議で斬罪とすることが直ちに決定され、翌7月21日に斬罪が行われた。
5人まで行うと牢内が大騒ぎとなり、大砲、鉄砲を撃ち込んで牢内の者をほとんど撃ち殺した。
牢内で騒動した者は、罪人として「成敗」したのではなく合戦して「打捕」ったというのであった。
7月27日には鎮撫軍はノカマッフを出発。
「御目見蝦夷」男女39人を伴っての帰陣で、ツキノ工の子イコリカヤニ、シヨンコの子カネマキ、イコトイの母オツケこらが松前へ出頭することになった。
9月5日、鎮撫軍が松前へ戻ると派手な凱旋行列が城下を練り歩いた。
見物の群衆を驚かせた「蝦夷錦之十徳」(大陸から渡来の錦の外套)などで着飾った「蝦夷人」たちの行進の姿も、「御貸下被成不残夷共ニ為着美敷行列」(貸し与えて着せて華々しく行進)させたものであった。
鎮撫に功があったというアイヌ首長たちの肖像「夷酋列像」も描かれたが、これも、凱旋行列の「盛事」が、その制作の動機となったともとれる史料もあるという。
ツキノエの功績は説得して降伏のかたちで鎮撫軍の前に出頭させたことだ。
ただし幕府にも伝えられていた「風聞」には、鎮撫軍はツキノエを呼び出して「蝦夷人共をスカシ寄せ召参り候様」(だまして連れてくるように)、そうすれば命は助けると指示したので、ツキノエは走りまわって連れて来た。
ところが30人以上も死罪となってしまった「不法な致方」でツキノエは難儀しているという。

非はアイヌを酷使した飛騨屋にあり、我が子を差し出したのも助かると思えばこそだった。
シャクシャインの戦いでも、講和の酒宴で寝込んだところを皆殺しにしたように、だまし討ちは松前藩のお家芸のようです。

そういえば、延暦13年(794)の坂上田村麻呂による蝦夷征伐でも恭順したアテルイとモレを処刑したように、古代から和人はだまし討ちを常としていましたね。

兒神社

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兒神社(ちごじんじゃ) 京都市右京区嵯峨釣殿町28-1

児神社は創立年月不詳、祭神は寛朝大僧正の侍児である。
寛朝大僧正は、成田山新勝寺を開創、後にこの嵯峨広沢の地に遍照寺を建立、名僧正として徳は一世に及ぶものなしと言われた。
長徳4年(998)6月12日、大僧正示寂、伝聞ではその時、遍照寺山腹の老松から龍となり、静かに昇天してゆくのが見えたという。
残された児は、悲嘆・悲泣し、後を追い、山腹下に広がる広沢の池に身を沈めた。
近在の人々、この児を哀れと思い、その霊を慰めんものとこの社を創建、以来児神社と称されるようになった。
この社について、弘化4年未春、嵯峨青護山人の述べるところ、略記すれば、次のごとくである。
女人懐妊すれば、必ずこの神殿に詣で安産を願い且つ産まれる子の知恵愛敬を祈るなり。もっとも霊験著しく昔よりこのところに五体健全、長命の人多きはまつたく此神徳による処なり仰ぐべし尊ぶべし。
なお、寛朝大僧正がこの広沢の池畔で座禅の祈、傍らでいつも児が腰を掛けていたという石椅子が、境内地に移し置かれいつしか神前で一心に祈願し、この石に座れば、必ず長命・安産・縁結びが叶うと伝えられるようになった。不思議なことである。
ちごの宮ちごは安けく生ひ立ちて 神の恵みのふかきをそ知る 永休
児神社宮司 野々村 良恵 敬白

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