図面にみるヴォーリーズの学舎






西宮上ヶ原キャンパス ジオラマ

原田キャンパス ジオラマ
キャンパスの中央に元久元年(1204)諏訪大社より勧請した健御名方尊神社が鎮座しています。
戦後南側に遷座して社名を王子神社に改めました。

王子神社(おうじじんじゃ)  神戸市灘区原田通3-8-43

ブランチ・メモリアル・チャペルが唯一原田の森に遺されています。
神戸文学館(こうべぶんがくかん) 神戸市灘区王子町3-1-2
こちらはM・ウィグノールの設計です。

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大坂と朝鮮通信使

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通信使は漢陽(現在のソウル)を出発し、釜山から大阪まで海路を6隻で航行。
通信使の船は大型の海洋船であるため、陸路への中継地である淀までの淀川を遡上できないため、幕府が諸大名に喫水の浅い「川御座船」を用意させた。
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正使が乗り込む川御座船には徳川の家紋が掲げられています。
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さてこの船団運航にはぼう大な人員の動員が必要となる。
まず船そのものの漕船については川御座船一隻につき、揖取入20人、表櫂12人、矢倉櫂12人で合計44人(指揮・航行監視の上乗り人は別)、これに隻数を乗じた人数であるからそれだけで約500人の熟練した船乗りが必要とされる。
附属船については、雨戸船、飯焚船、小使船、水先案内の小早船、その他の用船に用いられた中型の船が一隻あたり船手・水主あわせて8~12人を要するから、随伴船の総数を約50隻とすればこちらにも約500人を要する。
これに曳船の茶船が約20~40隻くわわると優に2000人をこえる漕船人員が確保されなければならない。
したがってこれらの動員には川御座船を出す西国大名の藩、および大坂船手に属する船手・水主が総動員される。
その上に淀川中流遡行のための綱引き人夫の確保が必要である。
その概数は、上り綱引き人夫1318人、下り400人、このほか船団通航に先立って河川に堆積している河砂を除去するために動員された水没人夫は、往路のべ20644人、復路同じく1570人という超大な人数である。

信使一行が江戸へ向かって出立したあと、大坂には毎回100人近い朝鮮人が残留した。
そのほとんどが官位の低い下官といわれた船手、水主などの人びとである。
しかしこれらの大坂残留者の取扱いは丁重をきわめた三使や上々官、上官などに対する接遇とはことなって、厳しい監視と窮屈な船内生活の強要であった。
あまりに長い船内での軟禁同様の生活は当然極度の精神的疲労をもたらす。
そのような状態が続くことは好ましくないと日本側役人にもわかったのであろう。
ある日、船を囲っていた垣をひろめ、すぐ近くにあった竹林寺へ朝鮮人を誘導して、設宴に招いた。
竹林寺では「煮魚、御酒一斗三升、饅頭百三十」が用意され、鼓、踊りで一行を慰安する宴がもうけられた。


竹林寺(ちくりんじ) 大阪市西区本田1-9-3

韓人墳
1764(宝暦14)年、22歳の若さで客死した小童・金漢重。
1784(明和元)年に対馬藩の鈴木伝蔵によって殺害された都訓導・崔天宗。

cf.中尾 宏「大坂と朝鮮通信使」わが町に来た朝鮮通信使〈1〉 (青丘文化叢書)収録

大阪歴博「船場の町並」


船場の町並のジオラマは明治19年(1886)の愛日学区「建家取調図面帳」より平面図を作成。
会場には片岡 愛之助さん演じる船場の浪花屋の若旦那のビデオ解説が流れています。

今橋通に面した「懐徳堂

20分の1スケールのジオラマには230体ほどの人物・犬・猫・烏に猿までいます。
懐徳堂は医者の邸宅の一画を借りて運営されていました。
その医者が飼っていた猿が悪戯をして困っているという記録が残っていたので庭木に猿を登場させています。

家主の医者が往診に出掛けるところで、小僧が大きな蝦蟇に驚いています。

雪駄直し

隣の両替商「竹川屋」の前ではべか車から手代が千両箱を運び入れています。
べか車には「大阪改」の刻印がされています。

中野朋子学芸員がライトで照らしながら解説。猫が10匹いるそうです。

背割下水   淀屋橋筋の木戸の隅ではしゃがんでいるご婦人が・・・。

街中には各所に簡易トイレが設置されており、維新後は公衆トイレの普及した都市となりますが、現在は公園にトイレは設置されていませんね。

肥溜の臭いに鼻をつまんでいます。

鴻池・三井に次ぐ両替商「千草屋」の屋敷。平瀬露香は七代目。

街のガイド屋さん 元祖ツアーコンダクター?1日300文と結構稼いでいます。

御薦(おこも)さん

漢学と蘭学(左・福沢諭吉)の学生が心斎橋筋で遭遇し、メンチ切り(睨みつけ)しています。

昆布屋は心斎橋に多かったそうで、アットゥシを着た北前船の船頭が”しんぶら”しています。

「白米大安売」の米屋では店内で米搗きしています。
歴博のジオラマはめちゃくちゃ凝っていますね。

辛基秀コレクション 朝鮮通信使


辛基秀(シンギス)コレクション全点140件が大阪歴史博物館所蔵となったことを記念した特別展示「朝鮮通信使と李朝の絵画」(4月11日まで)  大澤研一学芸員の展示解説。

朝鮮通信使小童図
「サインして!」
大阪万博の時、一般の外国人にサインを求める姿がありましたが、昔も今も庶民の好奇心は代わりませんね。


正徳度朝鮮通信使行列図巻

文化度朝鮮通信使人物図巻

朝鮮通信使行列図巻

そうだったのか!日本の核武装論

国内の新聞はスポンサー等の関係でなかなか本当のことを書きませんが、その点海外の新聞は遠慮なく書いていますね。
最近では朝鮮日報の鮮于鉦(ソンウ・ジョン)論説委員の【コラム】「韓国の核武装論に日本が注目する理由」(2016/02/28)がそれです。

日本は発電用という名目で、核燃料であるプルトニウムを47.8トンも保有している。これは核爆弾6000発を製造できる量だ。日本の当局者はこれまで核武装を主張したことがない。かつて「非核三原則」を主張した首相は、退陣後にノーベル平和賞を受賞した。だが日本政府は核武装の能力をずっとちらつかせてきた。「(核武装)しようと思えばできるが、やらない」というわけだ。
これが核カードというものだ。

核カードはただで得られるものではない。東海(日本海)の沿岸にある福井県の海岸には、文殊菩薩の「文殊」を意味する「もんじゅ」という名の高速増殖炉がある。韓国ウォン換算ですでに11兆ウォン(約1兆円)が投入され、維持管理費だけで年間2000億ウォン(約200億円)も掛かる。設計段階を含めれば半世紀近くが過ぎたが、度重なる事故のせいでほとんど稼働できていない「幽霊原子炉」だ。それでも日本は諦めていない。「エネルギーの自立が必要不可欠」というのが表向きの理由だが、別の見方もある。「もんじゅ」を諦めれば高速増殖炉用として備蓄したプルトニウムを手放さなければならないため、この原子炉を抱えたままにしているのだ。日本はこのような原子炉の存在をアピールし、1988年の米日原子力協定でプルトニウムの導入と生産を容認してもらった。日本の核カードは米国からもらったわけだ。

日本は核爆弾の被害を受けた上、原発事故も経験した。日本で核武装論はタブー視される。しかし核の持つ高度な二重性を、高度の二重的政策を通じ、戦争と平和という二つの側面から十分に活用してきた。1950年代に核政策を樹立した日本政界の重鎮は、97歳になった今まで核武装について一度も口にしたことがない。しかしこの政治家が胸に秘めた日本の国防の終着点は「核武装」だと私は確信している。そうでなければ核に対する日本の執着心がこんなにも一貫して続くことはなかったはずだ。

中曽根康弘氏と正力松太郎氏のコンビで始まった日本の原子力政策は、読売新聞が全面サポートして「原子力の平和利用」という幻想を日本中に拡散しました。
この記事で思い出したのが、『文藝春秋 2016年 01 月号』94巻 1号の小泉純一郎独白録。

小泉  総理の時、私は原発を推進していた。原発のいろんな技術的な問題はよくわからないから専門家に意見聞くとね、日本にとって必要だと思った。廃棄物の捨て場所も10年、20年たてば見つかると言われた。「科学万能」「いずれ放射能は無害化できる」とも聞かされた。でも、俺は事故があってからできないとわかったんだ。仮にできたとしても500年先、1000年先。みんな死んでいるよ。
日本では産廃業者は処分場を自分で見つけないと都道府県知事の許可を得て会社を作れない。原発業者は産廃より危ない核廃棄物の処分場一つもないのに認められるんだ。これ、わかりやすいのに新聞は書かないね。
最近面白い新聞記事見たんだけどね、16年4月から電力小売りが自由競争になる。風力、太陽光、地熱、小水カ、ガス、バイオマス……。原発より安い電力が得られたら自由化で原発やっていけなくなる。国民だって経営者だって安いほう使うよ。原発必要論者は「政府がもっと支援してくれないと原発は成り立たない」って言いだした。原発は税金投入しないと続かない産業なんだ。

常井  原発から出るプルトニウムは核兵器の材料にも転用できますが、その平和利用が国際的に認められている状況が「外交的には、潜在的な核抑止力として機能している」と読売新聞は社説で主張しています。
小泉 ああ。これもおかしな議論だよ。もし日本を混乱させようと思ったら、原発爆破してメルトダウンを起こせば、日本人が放射能を浴びてがん患者がすごく出る。日本は右往左往、もう駄目。こんな脆弱な国はないよ。日本人に向けた核兵器を日本が持っているのと同じことになる。核燃料を貯めているところだって、やられたらおしまい。米軍基地なんか叩く必要ないよ。

常井  我が国のエネルギー安全保障の根幹とされる日米原子力協定の存在を理由に、日本政府の政治判断だけで原発ゼロにはシフトできないとも言われています。
小泉 言われている。話聞いてみると、野田佳彦総理の時に米国との原子力協定を持ち出されて、「原発ゼロ」と言えなくなっちゃったって。だけど、日本の総理大臣が決断すれば米国は文句言いませんよ。日本のことなんだもん。

もはやコスト的に見合わない原発は、平和利用らか核抑止力にスイッチしていくようですが、小泉氏の言うように原発爆破となれば我が家も丸い円の中にあり・・・。

原発から半径50kmエリア                        なんちゃって☆原発ハザードマップ

夷酋列像 Ishuretsudo

みんぱくの北海道博物館開館記念特別展「夷酋列像―蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界―」を拝見。
「夷酋列像」が制作された発端に「クナシリ・メナシの蜂起」がある。

浪川 健治著「アイヌ民族の軌跡 」(日本史リブレット)で見てみると、

藩主や藩士の財政が悪化する元禄期ごろには、商場の経営を共同して行う商場知行主や、運上金をとって商場の経営を商人に委ねる者さえあらわれ始めた。これが、場所請負制の成立である。
この経営を委ねられた商人が場所請負人で、運上金にみあった収益をあげるために、商場交易だけではなく各場所のアイヌの人びとに漁業に従事することを強制した。
場所内の番人たちの暴力、とくに女性に対する暴力も頻発する。
さらにそれに拍車をかけたのが、和人との接触による天然痘・梅毒などの疾病の流行と死亡者の増加、そして未婚者の増加、堕胎の強要などによる出生率の低下などで、文化・文政期以降幕末にかけて、アイヌ人口は急激に減少した。
場所請負人たちのアイヌに対する過酷な扱いと脅迫、不公正な賃金の支払い、女性への虐待、越冬準備も不可能なほどの労働強化などが飛騨屋の場所で甚だしく、それを強制するための暴力が日常化していた。
蜂起図
1789(寛政元)年5月、飛騨屋久兵衛の請け負っていたクナシリからメナシにかけて、計130人による蜂起が起こると、松前藩は6月2日に「取調」として新井田孫三郎以下、160余人を鎮圧のために差し向けた。

蜂起したアイヌはツキノエやションコといった有力なアイヌ首長に説得され、出頭して謝罪と恭順の意を示したが、新井田は蜂起の頭取としてクナシリのマメキリほか13人、メナシではシトノエほか22人に対し死罪を申しつける。松前藩兵は牢に向け発砲して全員を殺し、処刑者の首を松前に運び晒した。

鎮圧後、松前藩は協力的であったアイヌの人びとを「御味方蝦夷」と位置づけ、おもだった首長層を松前に「御目見」のために呼びよせた。
今日、われわれはこのときに描かれた「夷酋列像」と称されるクナシリ・メナシの蜂起の鎮圧に功のあったアイヌ首長層12人の一連の肖像画をみることができる。
蠣崎波響の筆によるこの一連の絵のなかで、ツキノエは蝦夷錦のうえにロシア風のマントをはおり、イコトイは裸足で鑓をもち目にもあざやかな赤のマントをまとっている。
そして、それぞれが凶相とされる三白眼であり、また不自然な狩りのポーズで描かれる者もあるなど、夷風を強調するための甚だしいデフォルメが加えられている。

「夷酋列像」は非常に緻密で陰影もあり写実的に見えるが、役者絵のようなポーズからして作為的な画だ。

マウタラケ  毛皮の敷物は千島列島で捕獲したラッコの皮で、松前藩の重要な交易品であった。

チョウサマ  手にしているのはアイヌの祭器で、松前藩が甲の前立(鍬形)を加工して贈ったものという。

ツキノエ

ションコ

イコトイ   清朝官服の蝦夷錦の上にロシアの赤いマントを羽織っており、アイヌの山丹交易の広さが窺える。

シモチ

イニンカリ   蝦夷錦を左前に着せて見せているのは「被髪左衽」(ひはつさじん)。
乱れた髪で着物の着方も知らない野蛮人だと強調している。

ノチクサ

ボロヤ

イコリカヤニ

ニシコマケ

チキリアシカイ