ホノルル日系人の歴史地理

飯田耕二郎著『ホノルル日系人の歴史地理』(ナカニシヤ出版  2013.3.29)を基にホノルル散策を。

アアラ地区における日本人街

ホノルルのアアラ地区は古くから市の中心部にあたるダウンタウンの西側に位置する地域である。
第2次大戦前はここに日本人街が存在し、多くの日本人商店や映画館などがあっていわばハワイにおける日本人の中心街のような場所であった。


ヌアヌ川を渡るとホノルルのダウンタウン・中華街。
アアラ・パーク Aala Parkを中心に日本人街が広がっていました。
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砂糖耕地での契約労働を満了した日本人が、1890年頃から次第にホノルルに流入するようになったが、1900 年にダウンタウンで起こったペスト焼き払い大火で日本人が密集していた地域がほぼ全焼し大きな被害を被った。
しかしこれが一つの契機となっり市内各地に日本人町が形成された。
それらの日本人町のなかでダウンタウンのすぐ西側に商店が立ち並ぶ日本人街が形成されていくが、それがアアラ地区である。
第2次大戦中、この地域の多くの商人たちが抑留されてしまったことは日本人社会にとって大きな痛手であった。
戦後になって1947年に鉄道が停止し、市外電車も1953年に終わりを告げた。
また1959年にアラモアナ・ショッピングセンターが新しくできた。
さらにダウンタウン再開発計画によりホノルル座と日本劇場は立ち退きを余儀なくされ1964年に閉館した。
こうしてアアラ地区の崩壊は1950年代から60年代にかけて徐々に進行していき、アアラ連合のビルも1973年に取り壊された。
現在この地区はアアラ公園が広々として存在するが、アラモアナ・センターができるまではホノルル最大のショッピングセンターであったことは間違いない。

この地域には加藤神社と出雲大社があり、多くの社寺がそうであったように神主・僧侶は敵性外国人と見做され抑留、社寺は没収され、戦後、出雲大社は場夜を移して再開された。


出雲大社

加藤神社は布哇に於ける在留同胞中、清正公帰依者の懇願に依り明治44年9月肥後国熊本県熊本市城北に鎮座奉祀せらるる県社加藤神社を分祠奉斎したるものにして大正元年8月23日ホノルル市ベレタニア街に地を卜し宸殿及び社務所を新築し此に鎮祭す。

当時の日本人とくにこの近辺に多く住む熊本県出身者にとって旅館とともに大きな存在であった。

加藤神社は現在、石鎚神社に合祀されました。

モイリリ地区における日本人町

モイリリ(Moiliili)地区はワイキキの北側でハワイ大学のあるマノア地区から少し下がった所にある。ここには現在、ハワイ日本文化センターもあり、公園の南中に広島県の厳島神社を模した鳥居も建てられて、ホノルル市内のなかでわずかに日本人町の面影を残している地域である。
ここには今から110年以上も前に日本人が住みつき、その後発展していった。


Japanese Cultural Center of Hawaii

HIROSHIMA TO HONOLULU HAWAII FRIENDSHIP TORII

モイリリに最初に住み着いた柏原喜八を記念した石碑

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ハワイ日本語教育の母 立川冴

先日は同志社大学で奥村多喜衛氏のことを知り、マキキ聖城基督教会に行ってみようと思い、関連書籍を立命館大学OICライブラリーで探していると、中野卓編著『日系女性立川サエの生活史』(1983)御茶の水書房が眼に留まりました。

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中野氏が初めて立川サエさんに出会ったのが昭和55年(1980)、アラモアナセンターの北側にある宿泊先のパコダ・ホテルからライクロフト通りを左を少し歩くと、もう学校の前。
校門の前の落ち葉を掃除していた小さな可愛いいお婆さんがその人だった。

私が案内されたのは、きれいに上敷きを敷きつめ、床ノ間もある、質素な広いお作法室で、お茶室とも呼ばれていて、お茶や生け花のお稽古をなさっているので、茶の湯の道具を置いた棚も北東の一隅にあって、南向きのすりガラスの窓は明るいホノルルの日の光を透しており、私のために座蒲団ひとつだけが、もうちゃんとおいてありました。

福岡県の藺草の田ン圃の広がるなかに在る一軒の村家で、明治22年(1889)に生れた女の子、それが、いま「九二歳になります」と自己紹介された立川サエさんなのです。
柳川の女学校を卒業して、彼女はあこがれた東京へ出て、専門学校に学び、教員免状をとり、生れた村から少し離れた大川の女学校の教員をしていました。
そこで彼女は、ハワイ帰りの開教使の夫人に見込まれて、長崎県出身の若い浄土宗ハワイ開教使と 「写真結婚」することとなります。
明治44年(1911)にハワイ群島のハワイ島へ渡って、オーカラという田舎の、日系移民の村の、小学校の校長-といっても先生は、彼女の行くまでは、彼がただ一人で子供たちを教えながら、親たちに布教もする開教使、立川真教という人が彼女の夫でした。
だから真教・サエ夫妻は、まるで分教場のような小さい、日系移民たちの建てたオーカラ日本人(小)学校の、男先生・女先生として、砂糖キビの広々と広がる耕地で、農業労働者として働く日系人の子供たちや、その親たち、若者たちから慕われました。
サエさんは、日系二世である子供たちの、日本語による初等教育に献身する喜びと苦労のなかで人間として一段と成長してゆきます。

バカラクはオーカラよりも大きい砂糖新地で、そこにはお寺と附属日本語小学校があります。
そこの前任者が不評判で、大騒動を残して去ったあとを収拾できるのは立川夫妻しかないというので、ホノルルの浄土宗ハワイ開教本部から立川関数快へ転任を求めて来ます。
サエさんは生れたばかりの長男を抱き、どうしてもバカラウまでついてくるというオーカラの小学生二人をも連れて引越します。
オーカラよりも大変だったバカラクでの苦労にもかかわらず、サエさんが 「バカラクの頃が一番よかった」というほど、立川夫妻は布教にも教育にも成果を上げます。
サエさんはバカラウで、あと三人の男の子を生みました。

末っ子の生れた大正9年(1920)に、夫立川真教は抜擢されて、これまでになく若い、三八歳の開教使長となる辞令を受け、ホノルルへ転任ときまります。
浄土宗ホノルル関数院の、住職兼開教校長兼附属布瞳女学校校長とその妻兼同女学校助員というのが、立川夫妻の任務でありました。

物部ひろみ氏(同志社大学准教授)の「戦間期ハワイにおける日系二世女子教育」には、

単に日本語や日本文化を教えるだけでなく,ハイティーンの二世女子に花嫁修業をさせることに目的を特化した学校も現れた。
その代表的な学校が,立川冴子(1889-1990)が館長(校長)を務めたホノルルの立川高等女学館であった。
福岡県出身の立川冴子は,1911年にハワイ島オーカラの在留開教師であった立川真教の写真花嫁としてハワイに渡ってきた。
1920年に冴子は夫とホノルルに移り,浄土宗系の布哇女学校で教鞭を取るようになった。
夫の病没後の1931年6月,冴子は17歳から20歳ぐらいまでの二世女子を対象とした立川女学館をホノルル市内キング街に開校した。
立川女学館では日本語,日本文化,修身,茶道,生け花,礼儀作法,洋裁,和裁や手芸が教授された。
公立学校の課程を終えた年長の生徒は朝8時から夕方5時まで授業を受け,義務教育の課程に学ぶ生徒は公立中学校の授業を終えた午後2時以降にやって来た。
やがて,立川女学館に入学させれば,留学させずとも日本と同様の教育を娘に受けさせることができると評判になり,二世の日本留学が盛んになった1932年頃から,ホノルルのみならず地方の父兄から娘を預けたいという申し入れが殺到した。
ライクロフト街に移転後,本科,家政科,高等科や師範科が相次いで創設され,1930年代未には立川女学館は教員数7名,通学生と寄宿生を合計した生徒数は250名近くに上る規模となった。

その後のことを知りたく、ハワイ報知に問い合わせると、鈴木啓氏「ハワイ日本語教育の母 立川冴」の記事を送って下さいました。

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しかし1941年12月7日の太平洋戦争開戦により日本籍学校はすべて閉鎖され、立川女学館も閉めざる
を得なかった。
そしてほとんどの日本語学校の校舎は接収されたが、立川女学館は個人経営の女子校で、宗教団体にも関係していないということで接収は免れたが、銀行への借金の支払いは続いており、やむなく5年契約のリースで学校の建物を貸して家賃収入を返済にあてるようになった。
また学校からの収入が断たれたため、和裁の仕立てを生活収入にあてるようになった。

戦後リ―スも終わり、学校を再開することを決意したが、借主は小さい部屋をたくさん作って貸していたため、元に戻すためにまた新たな借金をして改装することとなった。
再開にあたっては、男子部も作り、立川中女学校・付属小学校として、新たなスタートを切った。
次男・三男も学校の経営を手伝うようになり、日系人社会の発展にともない日本語学校も再び盛んになって生徒数も増大し、1957年には約630人の生徒が在籍した。
これはホノルルではパラマ学園に次いで2番目の規榛だった。
また1963年にはコンクリート造りの新しい校舎を建設した。
1972年、高齢のため校長の職を三男の慈教に譲り引退したが、茶道と生け花の教授は続けた。
戦後も校舎の改装や新築のため、常に銀行からの借金の絶えることはなく、借金を完済したのは1980年の6月で、学校が設立されてから半世紀近くの月日が経っていた。
この間、ハワイの日本鋳教育への貢献が称えられ、1965年に藍綬褒章、68年に勲六等瑞宝章、72年に勲五等瑞宝章をそれぞれ受章.1990年2月14日ホノルルで、働き通した100年の生涯を終えた。

googlemap現在の立川中女学校・付属小学校をGoogle Street View で見ると使われていない模様です。

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2016年5月末現在、アパートメントに変わっていました。