かつらぎ町 天野の里

貧女の一燈お照の墓

高野山奥の院に、千年近くの間光輝いている貧女の一燈と言われる灯籠があります。
お照という少女が、自分の髪を売った金で養父母の菩提を弔うために献じた一燈です。
お照はその後、ここに庵を結び養父母の菩提を弔いつつ生涯を終えたと伝えられています。
天和2年(1682)妙春尼により供養塔が建てられ、貞享5年(1688)天野の郷供僧、浄意が女人の苦しみを救うために、代受苦の行を十年間勤め、ここに碑が建てられました。
この上に実父母の墓と伝える碑があります。


西行堂

このお堂は、昭和61年に場所を移して再建されました。
吉野の西行庵と川寺の西行堂と共に、天野の西行堂は、西行妻娘ゆかりの堂として有名です。
西行妻娘の住いとした庵を、西行堂として祀った天野の里人は再建を繰り返し、平安時代末期より守り続けてきました。
妻は、西行が出家して1年後、この下の家の後方台地に庵を建て住みました。娘も15歳の時、尼となり母と共に生涯を終えました。
母と娘は、この下に葬られ、誰が建てたのか小さな六地蔵にかこまれ、しずかに眠っています。
なく虫の 草にやつれて ゆく秋か 天野に残る 露のやどりぞ (似雲)


西行妻娘宝篋印塔 鬼王の墓

二基の宝篋印塔は、西行の妻と娘を供養した碑で、和歌山県の文化財に指定されています。
向かって右より二基は応安五年(1372年)建立され、左二基は文安六年(1449年)に建立されました。


横笛の恋塚

平家に仕えた名門武士、斉藤時頼(滝口入道)が雑仕横笛と恋におちたが、実らぬ恋と悟って時頼は出家し、嵯峨の往生院に入った。後に高野山で多門坊淨阿と称し、仏門修行の毎日を送りました。
横笛も跡を追い、奈良の法華寺で生涯を終えたとか、桂川に諸説はがありますが、治承3年(1179)高野山に入った時頼のあとを慕い、ここに庵を結び、恋しい人にあうこともなく十九歳で病の為に亡くなったと伝えられています。
滝口と横笛のやり取りした歌に
滝口入道の歌 そろまでは 裏見支かども梓弓 まことの道に 入るぞうれしき
横笛の返歌に そるとても 何か恨みん梓弓 引きとどむべき 心ならねば

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